アメリカ人の物語

2017年5月15日月曜日

アメリカ歴史旅ⅩⅩⅠ―弾薬庫(ウィリアムズバーグ)

ここに掲載している写真はトレース自由だし何に使ってもOKだよ。

今回は写真9枚。アメリカ歴史旅ⅩⅩに続いてウィリアムズバーグの弾薬庫。植民地時代の人々の生活が再現されているよ。場所はここだよ。



1,六角形のかわいい建物。もちろん中に入って見学できる。地面が白いのは貝殻が敷き詰めてあるから。おそらく水はけがよいからだと思う。


2,火薬樽。火薬にとって湿気は大敵!小脇に抱えられるくらいの小さな樽だよ。


3,弾薬庫と言ったものの武器庫かな。剣とかもあるよ。


4,これは短銃だね。こうやって収納していたんだね。


5,いろいろと物資がある。


6,太鼓は軍隊に必須品。水筒なんかがぶらさがっているね。それでラム酒をあおれば一人前の兵士気分!


7,マスケット銃。銃剣が装備されている。


8、だしぬけに当時の武器の解説が始まる。ウィリアムズバーグとはそういうところです。


9、これは散弾。射程は短い。布を破って中の鉄球が弾け出る。どうやって作っていたかは興味あったが、その実演はなかった。もしかしたらどこかでやっているかもだけど。それがウィリアムズバーグ。

最後に宣伝。こうして写真を公開しているのは宣伝も兼ねている。よろしくね!第2巻が発売されるまでもう少し待って欲しい。アメリカ歴史旅ⅩⅩⅡに続く。

2017年5月13日土曜日

『独立軍の花嫁』と歴史の世界



 対象となる時代は語られている内容から独立戦争の中盤以降。南部の戦局を概観すると、北部が独立戦争の最初の主戦場になった一方で、南部はあくまで王党派と愛国派(独立支持派)の内戦という意味合いが強かった。
 独立戦争初期にイギリス軍はチャールストンを攻略しようとしたが、コナーも参加したというサリヴァン砦の戦いで攻略を断念している。ただ後にイギリス軍はチャールストンの攻略に成功している。チャールストンは南部最大の街。 
 ヨークタウンの戦いが起きるまで大陸軍本隊は南部で戦うことはなかった。「沼地の狐」マリオンや「カロライナの闘鶏」サムターといった民兵を率いるリーダーがイギリス軍や王党派をゲリラ戦術で悩ませた。マリオンは非常に優れたリーダーとして知られている。機智でイギリス軍を翻弄した。部下にも慕われている。
ピーディー川を渡るマリオン
アメリカ人の物語3』(Kindle版)からマリオンの逸話を特別に抜粋。

 キャムデンの戦いが大陸軍の大敗に終わった時、すぐ近くでマリオンは民兵隊を率いていた。マリオンは一先ず兵士達を落ち着かせるために森の中に陣取った。そして、次のように演説した。
 諸君、我々が置かれた状況に気付いていると思う。かつて起きたこととまったく異なることだ。かつて我々は幸福な人民であった。自由が我々の大地を照らし、太陽のようにはるか向こうの土地を輝かせていた。我々と我々の父祖達は森を賑やかにする鳥のように喜んでその光の恩恵を受けてきた。しかし、ああ、黄金の日々は過ぎ去り、戦雲が今、暗く我々の頭上に垂れ込めている。かつて平和であった我々の大地は喧騒と死に溢れている。外国のならず者達が我々の炉辺と祭壇を踏み荒そうとしている。我々には隷属か死かの他に選択肢は残されていない。2つの勇敢な部隊が我々を救援しにやって来たが両方とも敗北した。リンカン将軍配下の部隊はサヴァナで打ち破られた。そして、ゲーツ将軍配下の部隊も愚かにも軍を進め過ぎてキャムデンで散り散りになった。したがって、北から救援が来るという我々の希望は終わりを迎えた。哀れなカロライナは自分自身で戦うしかない。彼女[カロライナ]の子供達が愚かにも敵と通じ、彼女のために1,000人に1人も立ち上がらないのであれば、悲しい選択肢を採るしかない。諸君、この重大な問題について意見を聞きたい。私自身は、人生は束の間かもしれないが、その束の間の時間のすべてを責務に捧げようと思っている。この無防備な国を隷属の悪弊から守ることこそ私の最大の責務である。したがって私は、私が生きている間、彼女[カロライナ]を奴隷にさせることはないと決意している。彼女は惨めな状況に陥るかもしれない。しかし、この私の目はそれを見ることは決してない。私の目の前で彼女が鎖の音を響かせることはない。そして、『あなたの臆病な心が私をこのような状態に置いたのです』と書かれた恥ずべき名札を示すこともない。
マリオンの演説を聞いた兵士達は、声を揃えて「我々は我々の国を守る。さもなければあなたと一緒に死ぬだけだ」と言った。それを聞いてマリオンは満足そうに頷いて言った。
さあ、我が勇敢なる戦友達よ、剣を取れ。我々の永久の絆を象徴するために輪を作れ。刃を天に向け、神に我々の自由を願い、決してイギリスの奴隷にはならないと誓おう。
マリオンの提案に兵士達が従ったのは言うまでもない。独立戦争において南部ではマリオンと先程、挙げたサムターが英雄である。
 しばらくして大陸軍からラファイエットやグリーン、モーガンなどが率いる部隊が到着してイギリス軍と対峙した。その辺りは同じく『アメリカ人の物語3』(Kindle版)で紹介している。もちろん『独立軍の花嫁』でも登場するカウペンズの戦いも詳しく解説。タールトンも登場する。モーガンに関心がある人は『アメリカ人の物語1』(書籍版)から読んで欲しい。若き日のモーガンもしっかり登場している。

 ヒロインのサマンサ(サム)。王党派の農園主の一人娘。この当時、子供の数が多いので一人娘は珍しい。結婚で重要なのは個人の意思ではなく家柄や財産。特に女性は親の決定権が非常に強かった。
 地域や時代によるが、一般的に父親の財産はサマンサが女相続人として相続する。未婚の場合、自由に財産を処分できるが、結婚すると財産は夫の管理下に置かれることが多い。
 「教会」と言っているのはおそらく国教会。主に海岸部の農園主が国教会と強く結び付き、支配階層を形成していた。
 奴隷に読み書きを教えるのが禁じられていたのは本当のことである。それは奴隷が読み書きを覚えると反乱を企てるのに使ったりするのではと農園主が恐れたためである。
 サマンサが農園の女主人として教育を受ける中で民間医療知識を身に付けているのは当時としてごく普通のことだった。ただ作中に登場する医療知識は少し時代が進んでいる。消毒という発想は当時はまだほとんどなかった。麻酔がなかったので阿片を鎮痛剤代わりに使うことはよくあった。
 農園主と奴隷の話、農園の生活などについては『アメリカ人の物語1』(書籍版)で詳しく書いた。

 コナーが閉じ込められた牢獄船について。コナーはどのような過酷な環境に置かれていたのか。牢獄船がどういうものだったのか『アメリカ人の物語3』から特別に抜粋。

 ニュー・ヨークを流れるイースト川には収容船が浮かんでいた。それはアメリカ軍の捕虜を押し込める獄舎であった。長い間、放置されていた収容船は、船体が風波に洗われて灰色にささくれていたが、ペンキで引かれた満載喫水線は泥で濁った浅瀬の上にまだ見えている。できるだけ多くの捕虜を収容できるように船内の隔壁は取り払われていた。暗くて狭い船倉が捕虜の生活の場であった。与えられる食事は虫が巣食い、蚤や虱が跋扈していた。チフス、赤痢、そして、壊血病が捕虜達の命を次々と奪った。ある者は次のように記している。

  私は自分が胸の悪くなるような牢獄にいるのに気付いた。最も陰惨でぞっとするようなもので溢れていた。むかつきながら不潔な空気を吸い、汚物にさらされ、病と死の恐怖に囲まれていた。
また別の者はさらに詳しく記している。
 
 灼熱の太陽が一日中、甲板に照り付けていたので、酷暑は耐え難く、彼らはすべて裸になっていた。それにそうしたほうが虱を取るのに便利だからである。しかし、病人は生きながら虱に体中を食われていた。彼らの病的な表情とぞっとするような様子は非常に恐ろしいものだった。ある者は、呪いの言葉を吐いて悪態をつき、またある者は泣き、祈り、そして、手を強く振っていた。そして、さながら幽霊のように徘徊する。錯乱してしまって譫言を言ったり暴れたりする者もいる。ある者は死に、そして、腐敗している。すべての者が息切れで苦しんでいる。空気があまりに淀んでいたので、時にランプの火が点かず、そのため10日間も立ってから死体が見つかることもあった。


 捕虜収容船の数は多い時で20隻を数えた。猛烈な悪臭を漂わせながら数え切れない死体が舷側から水中に投じられた。イギリス軍の士官は、「これはおまえ達の反逆に対する公正な処罰である。否、おまえ達は反逆者にしてはまともな扱いを受けた」と嘯いたという。その中にはおそらくまだ息がある者がたくさんいたに違いない。
 名もなく顔もなく記録にも残らない死者が辿った運命を悼む者はいたのだろうか。その家族は、死者を悼もうにも彼らが冷たい水中に没したことを知らないのだ。そうした名も無き遺骸が川岸に打ち寄せずに済む日はなかった。何年も経ってそうした遺骸が浮かび上がることも稀ではなかった。ニュー・ヨークの市民は、遺骸を目にする度にイギリス軍の残虐な行為への怒りを新たにしたという。
 一説によれば、獄舎で命を落とした兵士の数は1万1,000人にのぼったという。士官はしばしば捕虜交換で解放されたが、一般兵士が解放される望みはほとんどなかった。イギリス軍が捕虜にした兵士の数は、アメリカ軍が捕虜にした兵士の数よりも多いのが常であったからである。
 しかも、ワシントンは、ろくに装備も整わず訓練も受けずに捕虜になった民兵をイギリス兵と積極的に交換しようとは思わなかった。捕虜を人道的に扱うように訴えてはいたものの、ワシントンは、熟練した正規兵を解放して再び敵に回す危険を犯そうとはしなかった。
 こうした要因が重なって、捕虜となった兵士達はなかなか解放されず、最後まで生き残って解放された捕虜は僅か500人であったという。万骨枯れて一将功成ると言うが、これはあまりにも悲惨な犠牲である。

 コナーは天然痘の予防接種を受けていると言っている。実は当時の予防接種は人痘法と言って後に開発される牛痘法よりも非常に危険だった。ただワシントンは、天然痘で軍が壊滅しないように兵士に予防接種を受けさせている。そうした集団予防接種は、予防接種自体があやしい魔術だと思う人も多かった当時としては革新的なことだった。

 サマンサが髪を染める時に出てくる「インディゴ農園」。インディゴは南部の重要な産品だった。だからインディゴを使うのは当然の発想だと言える。
 作中でマッチを壁に擦ってするという場面があるが、当時はまだ黄燐マッチはない。マッチの原型がようやく現れ始めた時代。1784年11月11日にジェファソンがマディソンに次のように書いている。『トマス・ジェファソン伝記事典』から抜粋。

 これらのマッチは、一端に燐が被せられた細蝋燭からなり、全体はガラス管に密封されている。[輸送時に]壊れた場合に備えて、管にある小さな輪について説明しておきます。燐が塗られた一端をまず暖めます。[中略]。それからそれを素早く輪の近くに移して管の中から燐が塗られた一端を引き出します。引き出した途端にそれは燃え出します。火が完全に点くように、管を(燐が塗られた一端を下にして)約45度に傾けておくといつもうまくいくようです。[中略]。これをあなたのベッドの脇に蝋燭とともに置けば、ベッドから出なくても、夜のどんな時でも灯りを点すことができます。これをあなたの書き物机の上に置けば、3,4通の手紙を封蝋することができるでしょうし、もしもっと封蝋がしたければ蝋燭に火を点けることもできますから、夏には便利でしょう。森の中では火打石の代わりになります。[中略]。燐を手に落とさないように、細蝋燭を引き出す時は十分に注意しなければなりません。なぜならそれは除去することが難しく、もし十分な量があれば骨の髄まで焼けてしまうからです。尿は燐を除去すると言われています。

 マリオンの部隊に少年が所属しているが、当時は14歳くらいの少年がいるのは珍しいことではなかった。大陸軍でもそう記録されている。
 女性兵士は存在しなかった。ただし男装して戦いに参加した女性であれば複数確認されている。ある女性は男装してずっと女性であることを隠し通したが、戦闘で負傷して治療を受けたせいで真実が発覚してしまった。その結果、それ以上、戦えなくなった。ただ兵士としての年金は受け取っているので正式に兵士として認められていたことになる。

 サマンサのライフル銃の腕前が作中で登場するが、当時の人々の射撃能力はどの程度だったのか。『アメリカ人の物語2』(Kindle版)から特別に抜粋。

 この当時、一般的であったマスケット銃とライフル銃の差は銃腔に旋条があるか否かである。旋条は、銃身の内部に施された螺旋状の溝であり、弾丸に旋回運動を与え、弾道の直進性を高める構造である。直進性が高まれば命中率は上がる。約230メートルでも的を射抜くことができるというライフル銃の射撃性能は、マスケット銃と比べると驚異的であった。
 イギリス軍の標準装備であるロング・ランド・パターン・マスケット銃(愛称「ブラウン・べス」)の射撃性能は、当時の記録によれば、最大でも約140メートルであった。標準的な殺傷可能距離になると約72メートルから約91メートルである。つまり、ライフル銃を使えばマスケット銃の射程外から攻撃できるということである。ライフル銃兵が恐れられたのも無理はない。
 独立戦争が始まった頃、マディソンは友人に宛てて次のようにライフル銃兵について記している。

 この[ヴァージニア]植民地の強みは、主に高地諸郡のライフル銃兵にあります。我々はライフル銃兵をたくさん抱えています。この技術がもたらす完璧さにあなたは驚くでしょう。約91メートル離れた人の顔の大きさぐらいのものを外すことは素人からしても不注意な射撃に思われます。私は腕利きとは言えませんが、公正な機会があれば、その距離であれば打ち損じることはあまりありません。もし我々が戦闘に従事すれば、敵の士官達は約140メートルか約180メートルの距離に入る前に崩れ落ちるでしょう。私が思うに、実際、我々の中には約230メートルで的に当てることができる者がいます。
イギリスの地理学者のアイザック・ウェルドも『北アメリカ諸州及びカナダ旅行、1795年、1796年、そして、1797年』で次のように記録している。

 ライフル銃を持った経験豊かな狙撃手はクラウン銀貨よりも小さな的を約91メートル]先から確実に命中させることができる。戦争中、この街[ランカスター]に駐屯していたヴァージニアのライフル銃兵連隊に所属する2人の兵士は、互いの腕前を信頼していたので、約23センチメートル]四方の板を1人が膝の間に挟んでもう1人が約76メートルの距離から銃弾で撃ち抜く芸当をやって見せた。しばしば求めに応じて彼らはそれを交代で披露して街の人々を楽しませた。

 このようにライフル銃の利点を述べると、ではなぜイギリス軍がライフル銃を広く制式採用しなかったのかという疑問が浮かぶかもしれない。
  もちろんイギリス軍もライフル銃をまったく使っていなかったわけではないし、新式ライフル銃の開発も行っている。しかし、ライフル銃には、歩兵の一般装備として使用するにあたって不向きな欠点が幾つかあった。
 最も致命的な欠点は、銃弾の装填時間が非常に長くかかることである。具体的には、熟練した兵士でも45秒はかかる。場合によっては、一般的なマスケット銃の2倍もかかる。走りながら再装填できる者もいたそうだが、そのような器用な芸当ができる者は稀であった。
  その他にも主に3つの欠点がある。
  第1に、マスケット銃は品質が悪い弾薬も使うことができるが、ライフル銃は銃腔に旋条が施してあるために、清掃が難しく品質が悪い弾薬を使うことができない。
  第2に、ライフル銃は、所有者の身長や体型などの特徴に応じて作られた一点物である。したがって、マスケット銃よりも製造に時間がかかるうえに高価である。薬莢も所有者自身が準備しなければならず、支給品を使うことができない。
  第3に、技術的な問題からライフル銃に銃剣を装備することが難しかった。
 銃剣を装備することができないという点は射撃間隔の長さとともに重大な欠点だった。当時のヨーロッパの伝統的な戦闘技術では、歩兵は一斉射撃を2、3回行った後、最終的に銃剣で決着を付けるのが当然だと考えられていた。つまり、射撃性能は二の次だったのである。一斉射撃はあくまで敵を怯ませるものであり、怯んだところを銃剣で止めを刺すのが一般的であった。極言すれば、マスケット銃に銃剣が付いているのではなく、銃剣にマスケット銃が付いていたと言える。

 さてサマンサの腕前はどうだろうか?
 馬泥棒のスキルは南部の戦いでは有用だった。北部は秣が不足しやすく会戦で大規模な騎馬隊が活躍した例は少ない。しかし、南部では秣が確保しやすいので騎馬隊が活躍する場面が多かった。
マリオン部隊は塩を狙っている。塩が貴重品だったのは本当のことである。詳しい背景は『アメリカ人の物語2』(書籍版)の初稿から抜粋。

 古代から塩は重要な交易品であっただけではなく、軍隊になくてはならない物資であった。当時は冷蔵庫もなければ缶詰もない。塩漬けで食品を長期保存していた。肉を塩漬けにする場合、肉と同じ程度の重量の塩を使用することもあったという。塩が必要なのは人間だけではない。牛馬も塩を消費する。馬は人間の5倍、牛は人間の10倍も塩を消費する。それに消毒薬、鎮痛薬、整腸薬など医療にも塩は使用される。ナポレオンがロシア遠征で敗北して撤退する時に多くの兵士が生命を落とした原因の1つとして塩不足を指摘する者もいる。
 とにかく塩がなければ戦えない。日常生活を送れない。ある者は、「塩が非常に不足していて、もしまったく手に入らなければ、人びとは暴動を起こすだろう」と日記に書いている。民間でも皮革の保存、煙突の掃除、陶器の釉薬など塩はさまざまな用途に使われていた。クルミから作った灰汁を塩の代用品にしようとしたがあまりうまくいかなかったようだ。
 あなたは不思議に思ったのではないか。塩のようないかにも簡単に入手できそうな物資がなぜ不足したのか。現代のアメリカは世界最大の塩の生産国であり消費国でもある。しかし、当時のアメリカは、塩の国内生産量が非常に少なかった。それはイギリスの植民地政策の結果であった。植民地時代、アメリカは塩の自給を目指したが、イギリスは本国産やカリブ海産の安い塩を大量に流通させた。その結果、アメリカでは製塩産業が発展しなかった。
  独立戦争が始まった後、イギリスが強力な海軍で海上封鎖を行ったうえに、本国支持派が塩田を破壊して回ったので、アメリカは塩断ちに苦しむ。アメリカ人は、イギリス海軍の目を盗んで海水を煮詰めて何とか塩を作っていた。しかし、そうした製塩法は、効率が悪く、莫大な需要を満せない。

 一般的には当時の軍隊には、キャンプ・フォローワーと呼ばれる女性(兵士たちの妻や恋人、その他、家事雑用をする人々)も同行していたが、ゲリラ作戦のような行動をする部隊は特別だったと考えられる。キャンプ・フォローワーがいると行軍速度が落ちて敵に尻尾をつかまれやすくなり、キャンプに出入りする女性からいろいろ漏れることもある。

 作中に登場する「結婚公告」は当時の慣習。結婚する前に、結婚することを大きく張り出して告知する。簡単に言えば、この結婚に文句がある奴は名乗り出ろということ。いとこ同士で結婚する例が多いのは財産を分散させないためによくあった。

 サマンサが洋服屋で「質素な木綿のドレス」を購入しているシーンがある。当時、既製服を買う場合はロンドンの高級ドレスを購入するくらいで、普通は布地を買って仕立て屋に発注するか、それとも自分で縫って作った。既製服を買うという習慣はあまりなかったようだ。

 サマンサがボストン行きの駅馬車のキップを購入する話があるが、この当時はそういう駅馬車はなかった。駅馬車自体は皆無ではなかったが、そのような長距離の定期路線ができるのはもう少し後の話である。『アメリカ人の物語4』(Kindle版)から「駅馬車の父」と知られるリーヴァイ・ピーズを紹介したい。

 ピーズはマサチューセッツ出身の鍛冶屋で独立戦争の退役軍人である。ピーズは独立戦争に多大な貢献をしている。どのような貢献かと言えば、物資の調達である。ピーズは大陸軍のために通信を配達し、馬を購入し、物資を届けた。つまり、実質的に運送業を営んでいた。ピーズの舞台裏の活躍によって大陸軍はヨークタウン包囲を成功させることができた。
 そうした経験を生かしてピーズは、コネティカット州ハートフォードとサマーズの間を結ぶ駅馬車の定期路線を開設した。それは初めての長距離にわたる駅馬車の定期路線であった。1783年、駅馬車の定期路線はハートフォードからボストンの間でも開設された。ピーズの駅馬車の定員は11人でハートフォードからボストンまで約160キロメートルを4日間で走った。定期路線が設けられた当初、乗客はあまり多くなかったが、次第に定期路線沿いに宿屋が増え始めた。ピーズの事業は成功を収め、ハートフォードやボストンの他にウスター、スプリングフィールド、ニュー・ヨークなど多くの都市を結ぶ路線が作られた。こうして駅馬車は一部の階層の人々だけではなく誰でも使える公共の乗り物となった。当時の新聞に次のような広告が掲載されている。

 マサチューセッツ州スプリングフィールドからニュー・ハンプシャー州ダートマス・カレッジまで駅馬車の定期路線が多大な苦労の末に開設されたことを広告主は告知します。毎週月曜日午後1時にスプリングフィールドを出発します。同時にダートマス・カレッジからも駅馬車が出発します。火曜夜、ブラトルバロで待ち合わせをして乗客を交換して、それぞれスプリングフィールドとダートマス・カレッジに木曜日に戻ります。スプリングフィールドからの駅馬車は、月曜夜にノーザンプトンに泊まり、グリーンフィールドで食事をしてブラトルバロに火曜夜に到着します。ダートマスからの駅馬車は、ウィンザーで食事して、月曜夜にチャールストンに泊まり、火曜朝にチャールストンを出発して同夜にブラトルバロに到着します。快適な馬車と注意深い御者を提供します。公僕によって十分な注意が乗客に払われます。

 ピーズは運送業者として駅馬車を普及させる様々な発案を行っている。例えば駅馬車に御者だけではなく車掌も同乗させた。車掌は乗車券を販売を行うだけではなくしばしば料金を自分の懐に入れてしまう御者の不正を防止した。多くの業者が駅馬車に参入し始めるとピーズは共同で乗車券の販売所を設けるように提案した。そうすれば乗客はすべての業者の路線の乗車券を簡単に購入することができる。さらにピーズは特急列車に相当するサービスを考案している。つまり、停車する地点を減らして急ぐ代わりに特急料を徴収する方式である。後にピーズが考案した様々なサービスは鉄道会社に模倣され全国に広がることになる。

『独立軍の花嫁』の一番最後の一文。一般的に当時の女性の名前は、個人名+旧姓+夫の姓。ちなみに再婚すると、個人名+旧姓+前夫の姓+新夫の姓のようになる。最後の一文はそう思うと意味深い。

 当ブログのアメリカ歴史旅シリーズを見て貰えれば写真で『独立軍の花嫁』の世界が楽しめる。少し場所は違うけどね。

集英社の歴史漫画

たまたま古本屋で転がっていたので集英社の歴史漫画を買ってみた。監修者はついているようだが・・・・・本当にちゃんと監修しているのか非常に疑問の内容だった。驚きの歴史改変ストーリー。

驚くのが基本的にインディアンがみんな白人に友好的でウェルカムだという描き方。あまりに極端すぎる。

ワシントンが「副官」として従軍したと台詞に出てくるが、「副官」って用語解説も付けずに何か子供に分かるんだろうか?

モノンガヒーラの戦いの挿絵が実際とはまったく異なってありえない構図になっている。

モノンガヒーラの戦いでワシントンが兵士たちを「指揮」したとなっているが、その戦いではワシントンに指揮権はない!

モノンガヒーラの戦いの後、「植民地の男たちは、ぞくぞくとワシントンのもとに集まってきました」。・・・・・いや集まってこないからワシントンはとても苦労している。

植民地軍の活躍で「フランス・インディアン軍」を撃退。イギリス軍の正規軍が主戦力なんだが・・・・。それに今まで友好的だったインディアンがなんで敵に回っているの?って子供はびっくりすると思う。

「ボストンの殺りく」の挿絵・・・・・ポール・リヴィアのプロパガンダに見事に乗せられて、一方的にイギリス兵が市民を虐殺している図になっている。

ボストン茶会事件の後で同様の事件がニュー・ヨークで起きたという言及があるが・・・・・なんか全然、違う事件になっている。

第1回大陸会議の会場がなぜかインディペンデンス・ホールの絵になっている。本当はカーペンターズ・ホールなんだが・・・・・。

コンコードの戦い、「イギリス軍が入ってきたとき、まちうけていた植民地軍は、建物や木かげからいっせいにうってでました」とあるが、街に入る時にイギリス軍は妨害を受けていない。

第二回大陸会議でジェファソンがワシントンを大陸軍総司令官に指名しているが・・・・・その時、ジェファソンはまだフィラデルフィアに到着していないからその場にいない。というかジェファソンがジョン・アダムズの役を完全に奪うという展開。かわいそうなジョン・アダムズ!

ボストンを占領していたイギリス軍を「うちまかした」って単に撤退させただけで「うちまかした」とは言えない。

「マンハッタン島にとりでをきずき」の挿絵が適当すぎてびっくりする。なぜかフロンティアによくある砦のような挿絵。どこだよこれは。街がない。

致命的なミス。星条旗が1777年6月にできたという話があった後、「その後アメリカ軍は、この年のクリスマスの夜・・・・・トレントンを攻撃」。「この年」=1777年ってことになるが。ちなみにトレントンの戦いは1776年12月で星条旗が制定される前だよ。つまり、前後関係が逆です。

サラトガの戦い。なぜかイギリス軍がベネディクト・アーノルドが辿った難路を使ってケベックに向かうという意味不明なことをしていることになっている(説明地図にそう示されている)。そこを大軍で通るのは無理だよ。

憲法制定会議の開催年が、巻末の年表では合っているのに漫画本編では間違っている。

ワシントンが就任式で民衆の前で「民主国家がスタート」とか言っているが、そんなことは言ってないよ。

ということで漫画本編は監修の手がまともに入っていないらしい。たぶん後ろにある解説部分を書いているだけだと思う。それなのに「監修」とうたうのはおかしなことだ。

2017年5月10日水曜日

アメリカ歴史旅ⅩⅩ―総督官邸(ウィリアムズバーグ)

ここに掲載している写真はトレース自由だし何に使ってもOKだよ。

今回は写真11枚。アメリカ歴史旅ⅩⅨに続いてウィリアムズバーグのブルトン教区教会。植民地時代の人々の生活が再現されているよ。場所はここだよ。



1、奥に見えるのが総督官邸。ウィリアムズバーグはヴァージニア植民地の首都だったからね。時間になると寸劇をやっている。手前はペイトン・ランドルフだね。


2、総督官邸からダンモア卿がお出ましだ。詳しい話は『アメリカ人の物語1』第5章 独立戦争へ至る道 コリンズ大尉の極秘任務を読んでね!歴史劇は筋書きが分かると楽しい。


3、総督官邸の中。これは台所。鰹節みたいなのはおがくず。お掃除に使うよ。


4、台所の暖炉は大きいね。キャストさんがお料理の説明をしているよ。


5、書記官の仕事部屋。


5の補足。拡大すると、これは新聞のようだね。不買同盟が89人の植民地議会議員によって署名されたと書いてあるね。


5の補足。インクスタンド。赤い棒みたいなものは封蝋。手紙を閉じるのに使うんだね。


6、剣や銃が装飾的に置かれている。何本あるかは数えていないが数百本はあるのでは。


7、階段はこんな感じ。


8、鬘匠のお部屋。鬘は必須アイテムだからね。


9、ストーブ。こういうふうに空気を取り入れると一酸化中毒にならないのかな。

最後に宣伝。こうして写真を公開しているのは宣伝も兼ねている。よろしくね!第2巻が発売されるまでもう少し待って欲しい。アメリカ歴史旅ⅩⅩⅠに続く。

2017年5月5日金曜日

アメリカ歴史旅ⅩⅨ―ブルトン教区教会(ウィリアムズバーグ)

ここに掲載している写真はトレース自由だし何に使ってもOKだよ。

今回は写真12枚。アメリカ歴史旅ⅩⅧに続いてウィリアムズバーグのブルトン教区教会。植民地時代の人々の生活が再現されているよ。場所はここだよ。



1、ブルトン教区教会外観。

『アメリカ人の物語』から抜粋

 6月1日、ウィリアムズバーグにいたワシントンは、決議で決められた通りに教会に行って祈りを捧げて断食を行う。教会の鐘は殷々と響き渡り、市民は祈りの日を送る。
 ブルトン教区教会で行われた祈祷でトマス・プライス牧師は、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」とソドムの街の破壊についてアブラハムが神に対して行った質問を会衆に投げ掛けた。そして、プライスは、その問いに「私はその10人のために滅ぼさないであろう」というアブラハムに対する神の言葉で自ら答えた。
 プライスは何を言いたかったのか。ソドムという悪徳に染まった街でさえ、神は10人の正しい者がいれば滅ぼさないと約束した。それならば、それよりももっと正しい人々がたくさんいるボストンの街が滅ぼされることはないと強調したかったのだ。


2、タイラー大統領の娘の墓石がある。タイラーは子供が多いから何番目の子供だったかな・・・。


3、知らないと見落とす墓石。マーサ・ワシントンの前夫ダニエル・カスティスのお墓。もともとあった場所からここへ改葬されている。

『アメリカ人の物語』から抜粋

 将来の夫がフロンティアから帰って来るのを待つ間、マーサは墓地に足を運んでいた。ウィリアムズバーグとヨーク川を結ぶクイーン川の畔に静かに佇む墓地には、カスティス家の人々が葬られている。夭折したマーサの娘と息子、はるか昔に亡くなって面識もない姑、そして、新たに亡き夫の墓石が加わる。
 それはロンドンに注文した大理石製の壮麗な墓石であり、100ポンド(120万円相当)を要した。この夏、ようやく海を越えて届いたばかりだ。墓石には「ここにダニエル・パーク・カスティス眠る。1711年10月15日、誕生。1757年7月8日、45歳で死没」と刻まれている 。
 この当時、故人を偲ぶために墓石を据えることは一般的ではない。昔は多くの死者がぞんざいに墓石もなく葬られ、犬や豚にほじくり返されることがよくあった。ごみの中から遺骨が見つかったことさえある。そこでヴァージニアでは、死者を適切に葬る場所を確保するために法律によって教区教会に墓地の併設が義務付けられた程である。
 青々と茂る芝生に膝を付いてマーサは、削り出されたばかりの石面を愛おしむように撫でる。それは亡き夫への報告であった。
 死によって別たれ、結婚生活は長く続かなかったが、その思い出は甘美なもので忘れられないものだった。思い出の中だけで生きるには、まだマーサはあまりに若過ぎる。これが自分の選んだ道だ。
 しかし、新しい道を選んだのはダニエルを忘れるためではない。忘れることなどできはしない。あなたは逝ってしまったが、残された自分は遺児を守ってあなたの分まで生きる。そして、幸せになる。
 そう報告することで、先立った夫を弔う。新しい結婚生活に入る決意がマーサの中で固まった。その一方で夫となるべきワシントンの心は揺れていた。


4、教会内部。両側に並ぶ信徒席のネームプレートを見るとここがただの教会ではないことが分かる。


5、ジョン・マーシャル、「偉大なる最高裁長官」。連邦最高裁判所の長官として30年以上在職、州政府に対する連邦政府の優越性を確立。


6、ジョン・タイラー、第10代大統領。


7、トマス・ジェファソン、独立宣言の起草者にして第3代大統領。


8、ジョージ・ウィズ、アメリカ法学の父、ジェファソンとマーシャルの師匠でもある。独立宣言の署名者の一人。


9、パトリック・ヘンリー、革命の舌。「自由か死か」演説で有名。


10、信徒席全体はこんな感じ。言うなればボックス席だね。


11、ジェームズ・モンロー、第6代大統領。


12、そして、もちろんジョージ・ワシントン。

最後に宣伝。こうして写真を公開しているのは宣伝も兼ねている。よろしくね!第2巻が発売されるまでもう少し待って欲しい。アメリカ歴史旅ⅩⅩに続く。

2017年5月3日水曜日

アメリカ歴史旅ⅩⅧ―ウィズ邸その他(ウィリアムズバーグ)

ここに掲載している写真はトレース自由だし何に使ってもOKだよ。

今回は写真13枚。アメリカ歴史旅ⅩⅦからウィリアムズバーグに移動。植民地時代の人々の生活が再現されているよ。もともとウィリアムズバーグはヴァージニア植民地の首府だった街。当時の人口は1000人程度と少なかったが、いろいろな店が軒を連ねていた。場所はここだよ。



1、ここは仕立て屋。可愛らしい外観だ。当時は文字の読めない人もいたからいろいろなデザインの看板があるよ。ここの看板は羊さん。


2、中に入るとこんな感じ。映っているのはキャスト。いろいろ説明してくれる。


3、木工屋さん。作りかけの椅子とかあるよね。


4、木工屋さんには棺も置いてある。そう言えばドラクエの棺もこういう形だね。


5、ジョージ・ウィズの家。ウィズはアメリカ独立宣言の署名者。「アメリカ法学の父」と知られ、教え子にトマス・ジェファソン(第3代大統領)、ジョン・マーシャル(「偉大なる最高裁長官」) 、ヘンリー・クレイ(西部を代表する政治家)などがいる。最後は相続人に朝のコーヒーに毒を盛られて苦しみながら亡くなった。
 実は1781年のヨークタウンの戦いの前にここはワシントンの本営として利用されている。家の中はその当時の様子を再現してあるよ。


6、寝室。リアルな生活感。ベッドの周りを覆うのは当時は夜気に触れると良くないという考え方があったからだよ。ベンジャミン・フランクリンとジョン・アタムズがそれについて問答してるよ。


7、これは髭剃りの道具だね。へこんでいるところに首を入れるんだよ。


8、こういう部屋で作戦会議をしたんだろうね。軍服が掛けてあるよ。


9、ワシントン専用チェスト。もちろん模造品。


10、ネームプレートがちゃんとついている。


11、ラファイエットに扮したキャストがヨークタウンの戦いについて解説してくれるよ。一時期、ラファイエットは南部を転戦していて北部にいたワシントンと離れ離れになっていた。ヨークタウンの戦いが始まる前にウィリアムズバーグで二人は再会しているよ。

『アメリカ人の物語』から抜粋

 目撃者の回想によると、ウィリアムズバーグで2人が互いの姿を認め合った時、ラファイエットは、ワシントンを抱擁し、「離れていた恋人が帰ってきた時に情婦に熱烈に接吻するように」接吻したという。2歳の時に父をイギリスとの戦闘で失っていたラファイエットにとってワシントンは本当の父のような存在であった。


12、副官たちの部屋はこんな感じかな。


13、こちらはフランス軍士官の部屋かな。

最後に宣伝。こうして写真を公開しているのは宣伝も兼ねている。よろしくね!第2巻が発売されるまでもう少し待って欲しい。アメリカ歴史旅ⅩⅨに続く。

2017年5月1日月曜日

アメリカ歴史旅ⅩⅦ―ワシントンの邸宅マウント・ヴァーノン

ここに掲載している写真はトレース自由だし何に使ってもOKだよ。

今回は写真70枚。他31枚。たくさんあるから分けて公開。アメリカ歴史旅ⅩⅥに続いてマウント・ヴァーノン特別版。詳しく見たい人は是非ともマウント・ヴァーノンの公式サイトにあるヴァーチャル・ツアーを見て欲しい。とてもよくできているよ。場所はここだよ。


『アメリカ人の物語』から抜粋

 なだらかな丘の上に建つ邸宅の周りを囲む木々は春の空気に若やぎ、庭園は色とりどりの花々で溢れる。青々と匂い立つような芝生は今を盛りに生い茂っている。せせらぎが緑なす深い谷を潤している。そして、川面を滑る穏やかな風に遊ばれながらポトマック川を見渡せば、靉靆と春霞に覆われた景色がどこまでも広がる。
 まるで自然が2人の新しい門出を祝っているかのようだ。ある旅人が「ここでは夜に火花のような小さな昆虫が姿を現す」と記しているように、蛍が舞う季節を除けば、新春よりも心地良い季節は他にない。
 マーサーは、マウント・ヴァーノンを一目で気に入る。特に好ましい点は、マウント・ヴァーノンがポトマック川の畔にありながら、爽やかな風が吹き渡る高台に建っている点である。泥に塗れる湿性の土地は子供達の健康に良くないと信じていたからだ。その当時、熱病で子供が生命を落とすことは珍しくない。


マウント・ヴァーノンの中心部を見るとこんな感じ。他にも広大な農地があるよ。


1、マウント・ヴァーノンは英国式農業を取り入れた農園。羊が放牧されている。


2、これは糸紡ぎだね。こういうふうに当時の生活が野外で展示してあるよ。


3、テントが並んでいる。石鹸とか生活雑貨がたくさん!


4、邸宅の正面写真。


4の補足。昔の写真。一時期、マウント・ヴァーノンは荒れ放題だったけど、マウント・ヴァーノン婦人協会の尽力で復活。史跡の保存は大切だね。


5、当時の服装を着た女性が歩いている。これはもちろん裕福な女性の服装。


6、屋外トイレ。当時は屋外にトイレがあるのが普通。


7、テラス。ここからポトマック川が見える。


7の補足。昔の絵に描かれたテラス。あまり変わっていないね。


8、邸宅の前にはこういう芝生がある。


9、壁は石材のように見えるけど実は松材。

『アメリカ人の物語』から抜粋

 蛍が飛び交う季節は終わり、盛夏を迎えようとしている。滔々と流れるポトマック川は、降り注ぐ陽光をちらちらと反射して輝く。1頭の馬が走っている。奴隷が働く耕地を抜けると、ポプラにサッサフラスが心地良く影を落とす並木道が現れる。
 馬上の主人は何かを考えているようで、行き先を気にしている様子はない。それでも問題ない。馬はちゃんと主人をどこに運べばよいか心得ている。通い慣れた道だ。
 蛇のようにうねる並木道の先に広壮な邸宅が見える。赤く塗られた糸杉の屋根板が青空を背景にくっきりと浮かび上がる。白く塗られた壁は、一見すると緻密に組まれた石材のようだが、よく観察すると、実は粗面仕上げを施した松材だ。
邸宅内部の写真撮影は禁止なので私が撮影した写真はない。その代わりに昔の図版を紹介。


台所。


書斎。


『アメリカ人の物語』から抜粋

 午後の時間は書斎での読書や書き物に当てられる。書斎を少し覗いてみよう。
 壁には兄ローレンスの肖像画が掛かっている。書斎という最も個人的な場所に肖像画があることは、いかにワシントンが兄を敬愛していたかを示している。
 書き物机の上に小さな望遠鏡が置かれている。きっとワシントンはそれでポトマック川を行き交う船を眺めたり、夜空の星を見ていたりしたのだろう。
 バルバドス島から持ち帰った珊瑚もある。それを手にして兄ローレンスとともに南国の島で過ごした日々を思い出していたのだろうか。
 貴重品を収めた南京錠が付いた鉄の箱もある。さらにクローゼットには、ブラドックから形見の品として渡された真紅の飾り帯が大切に収蔵されている。
 書斎の主役は本である。一面がガラス張りの作り付けの本棚になっている。およそ900冊の書籍とパンフレットがある。その内容に基づいてすべて体系的に整頓されている。
 現代なら900冊の書籍はとりたてて多いとは言えないが、図書館がほとんどなく、書籍も極めて高価で珍しかった時代背景を考えると、上流階級の嗜み以上にワシントンは本を読んでいたと考えられる。
 読書歴を知ることはその人物の内面を知ることである。
 ワシントンの蔵書を見ると、偉人の伝記が多い。カール12世 、ルイ14世、ピョートル大帝、カール5世、グスタフ=アドルフ 、シュリー公爵 、テュレンヌ元帥 の名前がある。その他にもジョン・ロックの『人間知性論』もある。ワシントンは、過去の指導者から学ぼうとこうした伝記を選んだのだろう。
 ワシントンの読書の目的は、哲学的な思索のためでもなく、娯楽のためでもない。農業、軍事、政治、歴史などを扱った書物から実践的な知識を得ようとしていた。ワシントンの考えでは、「本の知識はその他の知識を築く基盤になる」ので重要であった。また「軽い読書(これによって私が意味しているのはほとんど重要性のない本のことである)は、束の間は楽しいかもしれないが、後に確かなものは何も残らない」とも言っている 。
 しかし、シェークスピアやローレンス・スターン の作品など実用書以外の本もワシントンの本棚には並んでいた。もちろん誰かからの贈り物であった可能性もあるが、シェークスピアやスターンの作品がしばしば引用されていることから実際に読んでいたことが分かる。他にも当時、流行した小説が多く含まれているが、おそらく他の家族の本だと考えられる。


食堂。


居間。


正餐室。


音楽を楽しむ部屋。


西の客間。


エントランス・ホール。



ワシントンの寝室。




10、邸宅の周囲にはいろいろな作業小屋がある。これは燻製小屋。ここで火を燃やしていぶす。


11、上を見るとこんな感じで肉が吊るしてある。


12、事務員のお部屋。


13、倉庫。


14、洗濯小屋。当時の洗濯は重労働。


15、お湯を沸かして運ぶのも一苦労。


16、馬車。これは日常で気軽に使う馬車。


17、豪奢な塗りの馬車。


18、厩舎。


19、ワシントンはロバを飼育していたことで有名。


20、邸内の小道を辿る。


21、旧墓所。ワシントンは最初、この墓所に葬られた。ワシントン個人の墓ではなくワシントン家の墓所。墓所はかなり小さい。


21の補足。ワシントンの葬儀の様子。 棺の大きさと比べて墓所が小さいのが分かるね。


22、1830年代の墓所の様子。荒れ放題だった。


23、ラファイエット再訪の様子。この絵を見ると、新しい墓所のようだけど、ラファイエット再訪時にはまだ新しい墓所はできていない。

『アメリカ人の物語』から抜粋
 1824年10月17日、ワシントンの墓所は両大陸の英雄を迎えている。独立戦争を戦った将軍達の最後の生き残りがラファイエットであった。独立宣言から半世紀近く経って独立革命の記憶は人々の間で薄れがちになっている。かつて在りし日のワシントンとともにマウント・ヴァーノンを散策した青年は、今や幾多の星霜を経て白髪を戴いた老爺になっている。フランス革命の動乱に巻き込まれ、陰惨な獄中生活を送った後、ラファイエットは第一線から退いて静かな時を送っていた。しかし、アメリカはラファイエットの貢献を決して忘れず、国賓として招待した。
 なぜ今更になってラファイエットをアメリカに招いたのか。それは当時の状況が関係している。
 時のモンロー大統領は、ラファイエットを招聘する手紙を出す2ヶ月前にモンロー・ドクトリンを発表していた。モンロー・ドクトリンは言ってみれば、アメリカの勢力圏を確保する試みであったのと同時に、ヨーロッパ諸国の支配から脱して新たに共和政を樹立しようとする旧スペイン植民地諸国に対する応援歌であった。
 こうした政策の正当性を主張する宣伝材料としてラファイエットの訪米が案出された。ラファイエットは表舞台に出ることはなくなっていたとはいえ、共和主義を志す人々がイタリア、ギリシア、スペイン、ポルトガル、そして、ブラジルなど各地からパリのラファイエットの自宅に押し寄せていた。独立革命とフランス革命の両方で重要な役割を果たした両大陸の英雄がアメリカを訪問すれば、共和主義の理念が再び燃え上がるに違いないとモンローは考えた。
 ラフェイットは各地で熱烈な歓迎を受ける。その中でも最も感銘を受けたのがマウント・ヴァーノンの再訪であった。
 ラファイエットとその家族、そして、案内役のジョン・カルフーン国務長官を代表とする名士達を乗せた船がマウント・ヴァーノンに到着する。川岸には、ワシントンの甥であるローレンス・ルイス、そして、同じく甥のブッシュロッド・ワシントンの家族 が待っていた。
 40年前の面影が残っているかどうかを確かめるかのようにラファイエットはゆっくりと邸宅に向かう。邸宅の扉には、ワシントン自ら打ち付けた釘にバスティーユの鍵が掛かっていた。それはラファイエットがワシントンに贈ったものであった。同行したジョージ・ワシントン・ラファイエットによれば、28年前に滞在した時とマウント・ヴァーノンはほぼ同じ姿を保っていたという。
 邸宅で饗応を受けた後、ラファイエットは納骨堂に足を向ける。かつてウォッシュと呼ばれる少年であったジョージ・カスティス、そして、ジョージ・ワシントン・ラファイエットなど少数の者達がその後に従う。その他の名士達は邸宅に残った。ラファイエットが故人に捧げる静謐な哀悼を妨げないように配慮したのだろう。
 納骨堂の前でカスティスはラファイエットに捧げる言葉を述べた。そして、演説を終えるとシンシナティ協会のリボンに下げた指輪を贈った。その指輪にはワシントンの遺髪が封じ込められ、外側には「祖国の父」と「マウント・ヴァーノン」という言葉が刻まれ、内側にはラテン語で「1777年、ラファイエット。新世界において覚悟を持った若者と決心を固めた老人を解放した。1824年、贈呈」という刻印があった。指輪を受け取って胸に押し頂いたラファイエットはカスティスの言葉に答えた。
「この畏れ多い瞬間に私の心に迫る感情は言葉では表せません。親愛なるカスティス、あなたの貴重な贈り物に私は感謝するだけで精一杯です。そして、人類の中で最も偉大で善良であり、我が父である友の墓場に静かな敬意を捧げたいと思います」
 そう言ってラファイエットは、カスティスの他、その場にいた人々を抱き締めると納骨堂の入り口に跪く。そして、苔生した木製の扉の上にそっと唇を重ねた。扉の周りに置かれた萎れた花輪が訪問者がいたことを示していた。
 扉が開かれ、ラファイエットは独りで納骨堂の中に入った。まるで愛する人がそこにいるかのように、冷え切った棺にラファイエットの唇が再び重ねられた。ラファイエットの口からは一言も漏れなかった。あまりにも多くの思い出に彩られた過ぎ去った日々を言い表すのに適当な言葉がこの世に存在するだろうか。ラファイエットの胸に去来する想いを的確に表現できる言葉などあるだろうか。
 数分後、外で待っていた人々は、老将軍の頬に滂沱と涙が流れているのを見た。残りの者も納骨堂に入って棺の前に跪いて故人に祈りを捧げた。そして、祈りを終えると互いに抱き締め合って涙を拭った。ラファイエットの涙以上に納骨堂を飾るのにふさわしいものが他に何かあるだろうか。


24、旧墓所の裏側。


25、旧墓所から邸宅を見る。

『アメリカ人の物語』から抜粋

 ワシントンの葬儀の後、当時の慣習に従ってマーサは寝室を閉じてしまい、3階の屋根裏の小さな寝室に移った。その部屋には暖房がなく寒かったが、窓からワシントンの墓所を眺めることがマーサにとって唯一の慰めであった。マーサはよく墓所に続く狭い道を歩いていたという。
 人が死んだ後、特に愛する人が死んだ後には必ず茫然自失とも言うべき状態が起こる。思いもかけない虚無の訪れを受け入れることは難しい。幸せな思い出や美しい思い出が救いになるとは限らない。思い出が美しい程、辛くなることもある。去って行く者にとっても、残される者にとっても。
 マーサは、葬儀を大掛かりにしないようにという夫の遺言を守って、公的な場には出席しなかった。しかし、マウント・ヴァーノンを弔問で訪れる者は後を絶たず、全国から山のように弔辞が寄せられた。そのため1800年4月3日、連邦議会は弔辞に返信できるようにマーサに郵便料金を無料にする特権を与えている。
 ワシントンの死後、マウント・ヴァーノンを訪問した牧師のマナセ・カトラーは次のようにマーサの様子を記している。
「彼女は将軍[ワシントン]のことを、非常に愛情を込めて語り、たくさんの厚意や優しさに恵まれているが、最も欲しいものは神のお恵みであり、友達の中に居てもまるで余所者のように感じ、故人の後を慕って行く日を待ち望んでいると言っている」

マーサの寝室


26、新しい墓所(1831年完成)。ワシントンは現在はここに眠っている。


26の補足。できたばかりの新しい墓所の様子。


27、鉄扉がある。ワシントン夫妻の棺が見える。


28、開けるとこんな感じ。いつもは閉まっているが月桂樹が供えられる時だけ開けられる。


29、波止場。マウント・ヴァーノンでは漁業も行われていた。


30、波止場から船に乗ることができる。ポトマック川から邸宅を見るとこんな感じ。


31、ワシントンの実験農場。奥に見えるのは干し草を収納する納屋。


32、タバコはこんなふうに吊るして乾燥させる。


32の補足。タバコ農園の様子。タバコの生産は奴隷なしでは成り立たなかった。


33、納屋を近くで見るとこんな感じ。かなり大きい。


34、納屋の中ではこうして黙々と実演している人がいる。


35、マウント・ヴァーノンには資料館があって、数々の遺品が展示されている。これはワシントンが使っていたというグラス。


36、少年時代のワシントンの肖像画。後世の想像によるものだけどね。


37、測量道具。


38、測量に励むワシントンの等身大象。


39、ワシントンが若い頃に立て籠もったネセシティ砦の木片。


40、青年時代のワシントンの剣。舶来品。


41、マーサが着用していたドレス。


42、紅茶箱と砂糖(箱の上)。


43、タバコを詰める樽。これ一つでホッグスヘッド。樽の横にはGWという焼き印が見えるね。これでタバコを出荷するんだよ。


44、ホッグスヘッドに詰めた樽にどれくらい価値があるか。タバコ1樽で紳士服一そろい、3樽半でマホガニー製の椅子12脚、8樽で砂糖やチーズなど嗜好品が一山という感じだね。


45、大陸軍総司令官のワシントン等身大象。馬はブルースキン号だね。


46、大陸軍の兵士の生活が再現されている。ベッドで寝ている人形はうなる。


47、こんなふうに服が吊るして乾かしてあったり。


48、銃弾を作る鋳型。


49、アメリカ王ジョージ1世。もしワシントンが王になっていたらこんな感じという再現。アサシンズ・クリードのシナリオにそういうのがあったような?


50、ウィスキー蒸留器。趣味ではなく稼ぐためだよ。原料はトウモロコシ。


51、ウィスキーの樽。


52、ワシントンの入れ歯。


53、デンタルケアの道具。


54、就任式の再現等身大象。


55、私が大好きなジャン・ジェローム・フェリスの絵が展示してある。けっこう小さくて緻密な絵。マウント・ヴァーノンの生活の様子だね。


56、これも同じくフェリス。






56の補足。他にもマウント・ヴァーノンを舞台にした絵があるよ。


57、庭園。奥に見えるのは温室。実はこの幾何学模様はよく見るとフランス王家の百合になっているよ。独立戦争でフランスから助力を受けたことを感謝していたんだね。


58、庭園の植物はけっこう生い茂っています。



58の補足。庭園でくつろぐワシントン。


59、庭師の小屋。


60、庭師の小屋の中。


61、ここは織物小屋。織物は自給自足しないとけっこうお金がかかるからね。なにしろマウント・ヴァーノンには奴隷も含めて300人くらいは住んでいたから。


62、監督人のお部屋。


63、鍛冶場では当時の様子を再現しているよ。


64、鞴をこうやって動かしている。


65、堆肥を貯める場所。


66、これは氷室。マウント・ヴァーノンではアイスクリームが食卓に並んでいた。


67、洗濯の野外展示。


68、こちらはチョコレートの製造の展示だね。カカオが見えるかな。


69、砂糖(円錐状のもの)に香辛料各種。


70、こうやってカカオをすりつぶしてペースト状に。当時はコーヒーみたいに液状で飲むのが普通。

最後に宣伝。こうして写真を公開しているのは宣伝も兼ねている。よろしくね!第2巻が発売されるまでもう少し待って欲しい。アメリカ歴史旅ⅩⅧに続く。